
御坊です
戦う女は美しい
女斗美(めとみ)とは、日本において女性同士の格闘、およびそれに対する嗜好をさす言葉だそうです。
つまり
つまり
戦う女性に女性美を見出したいという欲求
のことです。
のことです。
一言で女斗美といっても
・髪が長い、プロポーションが良いなど、女性的な魅力を維持したまま格闘を行なうことを好む・格闘よりも女性のボディラインや肉体の躍動を楽しむ・「強い女性」への憧れ・腹筋が割れているような女性の強さ美しさを堪能したい など
嗜好にも個人差があるようです。
続きから
▼女相撲の歴史と女斗美文化
日本では娯楽的に行なわれて来た
「女相撲」が女斗美の基本
といわれております。

「女相撲」が女斗美の基本
といわれております。
女相撲とはいっても、現在行なわれているアマチュア競技の女子相撲ではなく
女性同士が上半身裸で戦う姿を見て楽しむお座敷芸、見世物、興行としての女相撲が、江戸時代にはすでに行なわれていたようです。
女性同士が上半身裸で戦う姿を見て楽しむお座敷芸、見世物、興行としての女相撲が、江戸時代にはすでに行なわれていたようです。
女相撲に関する日本最古の文献は
「日本書記」!
というのが、偉い人らの定説となっているそうで、そのエピソードというのが、日本書記天皇9月の項に記載されております。
「日本書記」!
というのが、偉い人らの定説となっているそうで、そのエピソードというのが、日本書記天皇9月の項に記載されております。
469年(雄略天皇13年)、時代でいうたらなんと古墳時代!
腕に自信のある職人さんが、どんな状況でも失敗はしないと豪語するので
時の帝が、その職人の目の前で女官2人をふんどし一丁にして相撲を取らせ、それに動転した職人さんは
案の定、手元が狂ってしまいます。
それ見たことかと帝が、その職人さんを処刑しようとしたというえげつない話。
また
時の帝が、その職人の目の前で女官2人をふんどし一丁にして相撲を取らせ、それに動転した職人さんは
案の定、手元が狂ってしまいます。
それ見たことかと帝が、その職人さんを処刑しようとしたというえげつない話。
また

織田信長は、若き幼名「吉法師」を名乗っていたあの「尾張の大うつけ」と称されていた頃
13〜14歳程の少女達を集めて、握りめしを褒美に女相撲をとらせて喜んでいたそうです。傾奇者っ!
13〜14歳程の少女達を集めて、握りめしを褒美に女相撲をとらせて喜んでいたそうです。傾奇者っ!
ちなみに、(男性による)相撲は平安期にはプロ化しており、相撲人(すまいびと、今の力士のこと)が、貴族などに雇われていました。
江戸時代に入ると相撲は「勧進相撲(お寺とかを修理するための資金集め興行)」として盛んになります。
で
女相撲はというと、明和6年(1769年)に大坂で実施され
『世間化物気質』という書物には
「力業を習ひし女郎も、同じ大坂難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」
と書かれています。
つまり
「女相撲を習った遊女が、ミナミの興行でめちゃ稼いだ」
ってことですね、たぶん。
女相撲はというと、明和6年(1769年)に大坂で実施され
『世間化物気質』という書物には
「力業を習ひし女郎も、同じ大坂難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」
と書かれています。
つまり
「女相撲を習った遊女が、ミナミの興行でめちゃ稼いだ」
ってことですね、たぶん。
また、翌年の明和7年(1770年)の『孝行娘袖日記』には、
「とても、かやうな儀は上方でなければ宜しうござりやせぬ。御聞及びの通り、近年女の相撲などさへ出来ましたる花の都」
とあります。
「花の都「大坂」には女相撲あるやで!」
みたいな感じでしょうか
一方、江戸では女相撲だけでなく、女性と盲人、女性と羊の相撲も評判となり
安永年間(1772年 - 1781年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけ、
女相撲に取材した滑稽本などが流行したそうです。
しかし、安永の頃から、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられることになりました。
安永年間(1772年 - 1781年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけ、
女相撲に取材した滑稽本などが流行したそうです。
しかし、安永の頃から、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられることになりました。
その後、文政9年(1826年)、両国で女性と盲人との相撲が復活したようですが、
女性同士の女相撲興行は企画する人が何人かいたものの、長いあいだ復活できず、やっとこさ嘉永元年(1848年)に
「名古屋上り女相撲」の一団が大坂の難波新地にて興行を復活させました。
女性同士の女相撲興行は企画する人が何人かいたものの、長いあいだ復活できず、やっとこさ嘉永元年(1848年)に
「名古屋上り女相撲」の一団が大坂の難波新地にて興行を復活させました。
ちなみにこの興行で、女性力士の髪型がそれまで島田、丸髷姿であったものを男髷(おとこまげ)になったとのこと。
この時の興行は『大津絵節』に
「難波新地の溝の川、力女の花競べ、数々の盛んの人気、取結びたる名古屋帯、尾張の国から上り来て、お目見え芸の甚句節、打揃ひつつ拍子やう、姿なまめく手踊に引替へて、力争ふ勢ひの烈しさと優しさは、裏と表の四十八手」
と、うたわれるほどの人気となり、華美なまわしのしめこみと美声の甚句節手踊りが観客のこころをとらえ
幕末の興行界で異彩をはなちました。
つか江戸期は、難波での話が多いみたいですね
▼近代女相撲とその後

明治5年(1872年)3月に男女相撲見物の再差止により
女相撲はまたもや消滅傾向にありましたが、明治の中頃、また興行界に復活しました。
女相撲はまたもや消滅傾向にありましたが、明治の中頃、また興行界に復活しました。
これら女相撲の興行団は30人ほどで、地方巡業にも出て、力士の多くは14、5歳から25歳くらいの女性で、
全裸ではなく薄い肉襦袢を着込んで猿股を穿いていました。
興行内容は技を競い合うというよりも、むしろ余興の舞踊、力業曲芸を主としており、お座敷芸、流行の小唄節
流行踊りのほか、腹の上での餅つき、七人娘曲芸などがお客さんを喜ばせたようです。
全裸ではなく薄い肉襦袢を着込んで猿股を穿いていました。
興行内容は技を競い合うというよりも、むしろ余興の舞踊、力業曲芸を主としており、お座敷芸、流行の小唄節
流行踊りのほか、腹の上での餅つき、七人娘曲芸などがお客さんを喜ばせたようです。
その後、第二次世界大戦の時期の女相撲の足どりはつかめず、終息したかのようにみえました。
戦後も1951年(昭和26年)、石山女相撲一座という団体が東京で巡業しましたが、サーカス団に転向、その後廃業しています。
同時期に一世を風靡したストリップを実施していた浅草「公園劇場」で1955年4月1日に「春場所女大相撲」が催されました。
このようなストリップの一幕としての女相撲の実施は、1960年頃までみられたようです。
その後、興行としての女相撲は、後の女子プロレスなどへとバトンタッチする形でほとんど見られなくなります。
現在では、北海道福島町の「北海道女だけの相撲大会」のような地域のお祭りや
スポーツ競技としてのアマチュア相撲が実施されています。
スポーツ競技としてのアマチュア相撲が実施されています。
興行としての女相撲は、女斗美的な観点からすると、キャットファイトやストリップ、その他、フェティッシュ作品などとして、女相撲やそれに近いものは現存しているともいえるかもしれません。
こんな風にみると、「闘う女」の強さ、美しさ、そしてお色気的なものは、深く日本の文化に昔から定着してきているのかもしれませんね。
と、いうわけで
こう考えると
当店レズ鑑賞クラブティアラで一時期設けていた
「レズバトル鑑賞コース」
終了してから今現在でもお問い合わせのあるぐらい一部のお客様に好評だったのですが
その根底にあったのは
お客様のなかにある女斗美という、伝統的で純粋な嗜好だったのかも知れませんね(こじつけ
当店レズ鑑賞クラブティアラで一時期設けていた
「レズバトル鑑賞コース」
終了してから今現在でもお問い合わせのあるぐらい一部のお客様に好評だったのですが
その根底にあったのは
お客様のなかにある女斗美という、伝統的で純粋な嗜好だったのかも知れませんね(こじつけ
レズバトル女性同士が性行為中、主導権を奪い合い、お互い相手をイカせる対決のことをいうレズバトルは、基本的には勝敗があり、イカセると勝ち、イクと負けとなる。タチネコなどのセクなどは関係なく、互いが攻め合う(イカセ合う)作品やプレイのことをいいます。
御坊でした。
今回の記事は、カブキキッド選手に協力してもらいました。
・SpecialThanks カブキキッド・参照、引用元『興行としての女相撲に関する研究』 金田英子 著 1993年『女相撲民俗誌 越境する芸能』 亀井好恵 著 2012年「福島町女だけの相撲大会 」http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/shoukou/sumo/default2.htm